「純文学を読み切らないと出られない部屋@熊本」に参加し、古井由吉「杳子」を読みました

今日は、「純文学を読み切らないと出られない部屋@熊本」というイベントに参加しました。

「純文学を読み切らないと出られない部屋」は、水谷圭吾さんが東京で開催されているイベントで、これはその熊本版となります。

一応ホストということになっているのですが、共同で主催してくださったtomokiさんにほとんどおんぶに抱っこだったので、「開催しました」ではなく、「参加しました」ということにします。

(なお、開始時間を1時間遅く勘違いしており、めちゃめちゃ遅刻して参加しました。本当に申し訳ありません……。)

今回は、新潮文庫から出ている古井由吉『杳子・妻隠』から、「杳子」を読み切るまで出られない、という会でした。

参加者は4名。熊本城二ノ丸広場に集まり、おのおの読みました。本当は、ここで写真とかを載せるところですよね。撮り忘れましたので、そういうのはありません。

古井由吉「杳子」について

古井由吉の「杳子」は、第64回芥川賞受賞作品です。もちろん以前から名前は聞いていて、古井由吉という作家の存在も知っていたのですが、ついぞ読む機会に恵まれませんでした。

今回「純文学を読み切らないと出られない部屋@熊本」を開催するということで、純文学で何か読みたいやつがないかな〜という話になり、長さもちょうど良さそうだぞということで、この作品が選ばれました。

初読時の感想

開始時間に1時間弱ほど遅れて、Kindleで購入し、作品を読み始めました。

冒頭が頭に入ってこない

読み始めてすぐに「ぜんぜん頭に入ってこない、どうしよう、読めないかもしれない」と思いました。谷底の情景描写がなされるのですが、もう本当に全く読めない。これは僕の読解能力の問題なのですが、新しい小説に分け入っていくことの困難さ、というのを感じました。これはどの小説でも感じることなのですが、この作品はそれをとても強く感じました。

話の全容が分かった今なら読めるかな? と思って読み返してみても、やっぱりちょっと難しい。たとえば、以下のような文章があります。

谷底から見上げる空はすでに雲に低く覆われ、両側に迫る斜面に密生した灌木が、黒く枯れはじめた葉の中から、ところどころに燃え残った紅を、薄暗く閉ざされた谷の空間に向かってぼうっと滲ませていた。1古井由吉『杳子・妻隠』新潮文庫

僕も3回くらい読むと意味がわかってくるのですが、逆に言うと、3回読まないと何も分からない。これは、僕の空間把握能力がかなり弱いことに原因があるのかもしれません。でも、谷底から抜けた後の描写は、そんなに苦労することなく読めるんです。なぜかここだけが読めない。

まあ、僕の読解能力の低さの告白はこのくらいにしておきましょう。

「女くささ」について

この小説を読んでいて思ったのは、すごく「女くささ」に注目するなということです。せっかくKindleで読んだので、「女くさ」で検索してみると、なんと8回もでてきます。そのほとんどが杳子に向けられたもので、杳子が女くさいか否かが、割と重要になっている小説なのではないかなと思いました。

男と杳子は肉体関係を持つので、まあ女くさいかどうかが関係あるといえばそうなのですが、それにしても女くさいかどうかの話ばかりするなあと気になりました。

しかし、これは単純に気になっただけで、別に重要な要素ではないかもしれません。

先行する評を読んでみる

読後は、喫茶店に移動して、参加者で感想を言い合いました。1時間くらい話していて、結構盛り上がったなあという感じです。自分一人では抱けなかった感想がたくさんあり、参加して良かったなあと思いました。

読書会を通して、文学をもう少しちゃんとやりたい気持ちが芽生えてきました。しかし、ちゃんとするといっても、一体どうやって?

というところで、最近読んでいる『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』で、研究の営為というのは「会話」のようなものであると言っていたことを思い出した。これは、トゥラビアンの主張を借りる形で紹介されている。

アカデミアとはつまるところ、こういった「会話」の総体である。それは日常会話よりは間違いなく論争的な営為だが、研究者はあくまでも共通の目的に向かってああでもないこうでもないと議論を繰り広げているのであって、たとえば著者Aが著者Bを批判したという事実をスキャンダルのように捉えるのは素人の感覚だ――2阿部幸大『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』光文社

純文学を読み切られない部屋の感想戦としては、参加者の中で会話が行われていれば良かった。しかし、古井由吉の「杳子」という作品に何が書かれていたのかを考えるにあたっては、先行する膨大な「会話」がある。そこに参加するためには、まずこれまでにどのような会話がなされてきたかを確認する必要があるだろう。というわけで、目につくものを、これを機会に少し読んでみる。

Google検索をしてみると、ひつじ書房ウェブマガジン「未草」で連載されていた、重里徹也と助川幸逸郎による連載「芥川賞作品を読む」の中で取り扱われていたのが見つかる。

芥川賞作品を読む|第17回 古井由吉『杳子』(第六十四回 1970年・下半期)|重里徹也・助川幸逸郎

これを読むと、「境界性人格障がい」の話がまずなされている。杳子自身が作中で言っている「病気」の話である。これが実際にどういうものか、というところから話を始めている。

そして、この病気によって、杳子はあまりにも「今」を生きすぎているという分析がなされます。過去の積み重ねを二重重ねにすることができず、今ここで起こっている事態にだけに注目してしまう。なるほど、そうだったのか!

今日は読書会に参加して本を読んで、話して、疲れちゃったのでここら辺で読むのをやめるのですが、読書会のトピックとして、こういった先行する評の中からトピックを取り出して語るというのは、なんだか面白そうではあります。

また参加したいと思っています

「純文学を読み切らないと出られない部屋@熊本」は、また開催されそうなので、その時は参加したいな〜と思っています。次回も僕がホスト側にいるかはわからないのですが、どうやら2回目は開催されそうな勢いです。なるべく開催されるように、僕も尽力します。

あと、まじめに文学作品を読んでこなかったなあという気もしているので、これを機に芥川賞受賞作品を中心に読んでみようかなという気がしています。村上龍とかもあんまりちゃんと読んでいないなあ。まあたぶん、芥川賞受賞作品というのが日本の現代文学の正典ということになっている気がしているので、まずはそこから始めたほうが良さそうな気がしています。